プロフィール

自分の写真
名古屋生まれの名古屋育ち。絵との付き合いは、油絵を始めた高校時代。仙台にいた頃は友人と木版画に熱中。社会人になって遠ざかったものの、退職を期に再スタート。水彩、油絵と、もと来た道を楽しみながら続けています。

2011-12-01

稲刈り


 稲刈り (喜多方・慶徳) [油彩 P20]

  今日から東北地方の高速道路が来年3月まで期限付きで無料になった。予算の裏づけが今年度しか出来ていないのだろうが、余りにも短じかい。もっと延長してもらいたいものだ。子供の頃、遊びで忙しく学校からの宿題はろくにしなかった。まして予習などは考えも及ばなかった。いまの政府はそんなもので、片付けなければいけない問題を半ば積み残しながらばたばたしている。残念なことに、予習に当たる部分には手が回わっていないように見えてしまうのは 私だけだろうか。

  10月にスケッチした喜多方の稲刈り風景を完成させた、というか油絵にした。これまでは水彩でスケッチしただけで終わっていたのを、今年からそのいくつかを油絵に描き直している。選べる色彩も多いし、何といっても質感がこれまでの水彩よりも圧倒的だ。出来不出来はべつとして描いている時間は楽しめるし集中できる。ちょっとしたきっかけで始めたのだが、高校時代に油絵具の匂いがこもる部室で、絵を描いていた頃が思い出されるのもよい。

2011-10-26

秋色裏磐梯

 秋色裏磐梯 (弥六沼からの磐梯山) [油彩 F6]

  会津で好きな場所の一つは裏磐梯です。湖水と山と温泉、保養地の3要素があるし、静かでこじんまりとしたところが気に入っている。それに季節がはっきりとしているところもいい。1年が季節という輪郭でくっきりと縁取られているといえる。遅めに来る春は水芭蕉の花が知らせてくれる。夏は、磐梯山の荒削りな山肌の上に広がる青空を湖面に映して明るく輝く。秋は、一時錦の色を運んできてくれるが足早に来て去ってしまう。その後にやってくる冬は静かにじっくりと居座る。

  震災や原発事故以来、東北や福島へのエールをあちこちで目にする。被災した人々が少しでも励まされることを願います。また直接に被災しなくても、いわゆる風評による被害を受けて痛手を被っている人たちの数は公表はされていないが、広範囲なだけに相当な数になるのではないだろうか。今度、会津を回ってみて見て、みんなが観光地に出かけたり生産物を買ってあげることが一番のサポートになるのではないかと思った。初めて高速道路が無料化された時、地方にそれなりの経済効果があったことが実証されたはずだ。東日本に限定するとしても、止めてしまった無料化を期限を限ってでも再開したらどうだろうか。

2011-10-18

喜びのとき


  喜多方を訪れて感じるのは、風景にそれぞれの季節の顔が見えること。平地のほとんどで稲作が行われているので田圃の様子が季節の中心になっていると思う。空気がまだひんやりとして、晴れれば遠くに残雪をいただいた山が望める田植え時期も好きだが、何といっても稲刈りの時期が最高だ。街の西に南北にのびる丘陵があって、それを背に東を見ると雄国の峰や磐梯山に抱かれるように喜多方盆地(北会津盆地)の田圃が広がる。

  10月はじめ、雨が上がるのを見計らい出かけてみた。西風が強かったが、田圃のところどこで稲刈りの作業が行われていた。半分ほどの田圃は既に刈り取りが終わっていて、真新しい稲株に陽が当たり風景全体が明るく輝いて見えた。夏の田圃とは違って食欲がそそられるような暖かな色だ。軽トラックがあぜ道に止まっていて、コンバインが効率よく稲を刈っていく。遠くから軽く会釈を交わしただけで表情は分からなかったが、一年で一番楽しい時期なんだろうなと眺めた。

  福島の刈り入れを迎えた稲作農家は、自分たちが作った米にどれくらいの放射性物質が含まれているのか気を揉んでいたと思う。政府がサンプリング検査の結果を踏まえ出荷を認めたことで、まずは胸をなで下ろしたことだろう。しかし、どこかに不安が陰のように残り続ける。不安が現実にならなければと願う一方、不安を生み出した原発を続ける理由はないように思う。
 

2011-10-01

堰と水車

堰のある風景(アウフ・アン・デル・ペグニッツ、ドイツ)  [油彩 P15]

1年前、ニュルンベルクに1月ほど滞在していたとき、車で20分ほど東に走ってアウフ・アン・デル・ペグニッツ(Auf an der Pegnitz) という小さな町を訪れたことがある。「ペグニッツ川に接するアウフ」といった意味で、日本でいうなら、大和郡山市を「大和(国)にある郡山」と称するようなものかなと思った。「川に接する」という言い回しが町の名前に組み込まれているのは面白い。旧市街は30分も歩けば全部見れてしまうサイズながら、細長いマルクト広場に沿った家並みや、曲がりくねった裏道の地味な石造りの家々に趣があり見飽きない。

数日前に痛い目に遭ったイラクサに気をつけながら細道を通り抜け街の南側に出た。川幅が広くなったペグニッツ川の向こうに旧市街のオレンジ色をした家並が広がっていて、どこかのテーマパークのように見えた。川には"く"の字形の堰があった。しばらく眺めていていて、この堰が水車小屋へ水を引くためのものであることに気がついた。今でも使われているのだろうか、流木避けの杭などが整然としている。子供の頃見た日本の水車と比べると、ちょっと大仕掛けなところがドイツらしいのかなと思った。
 

2011-09-21

るーぷる仙台


  仙台に滞在して3日目、帰りの新幹線まで時間ができた。天気もいい。スケッチができる場所を探そうと青葉通に出るとすぐにバス停があった。運行地図を眺めていると”るーぷる仙台”というレトロな外観をしたバスがやって来たので、とりあえず乗ってみることにした。よく分からないままに乗ったのだが、これまたレトロな制服制帽の運転手が「土井晩翠が晩年住んでいた草堂跡が右に見えてきま~す。 残念ですが今日は工事があって休館になっていま~す」と愛想よくサービス満点のガイドをしてくれるので、どんなバスなのかすぐに分かった。「るーぷる」は"輪っか"のことか。観光名所を1時間ほどで巡るらしい。それに普通の市バスよりゆっくり走るし停留所が少ない。学生の頃過ごした街なのでガイドを聞きながら気楽に外を眺めていた。霊屋橋(おたまやばし)を渡って次の停留所、瑞鳳殿前(伊達政宗を祀る霊廟)で殆どの客が降りてしまった。軽くなったバスは青葉通りに戻り、広瀬川に架かる大橋を渡った。この辺りを歩いてみようと下車することにした。
  

大高森への道


  半年経っていたが、津波に襲われた土地を自分の目で確かめてみたいと思っていた。仙台から北東に約30Km、松島の少し先にある、松島湾に浮かぶ島々と外洋を一望できる海抜100m少々の大高森に出かけてみた。最近では8年前に訪れたことがある。最寄の駅は野蒜(のびる)だが、そこまでの仙石線(仙台-石巻)は全面復旧していないため、松島海岸駅から代行バスに乗った。一つ手前の東名(とうな)駅を過ぎると津波にさらわれた家の跡や、1階部分が壊され傾いた家が突然目に入ってきた。一駅で被害の風景ががらりと変わる。野蒜で下車すると、壊されうち捨てられたような駅舎や店舗の無残な姿があった。「またあの美しい野蒜をとりもどそう!!」子供が書いたと思われる幟が駅舎に貼ってあって、ここに住んでいた人たちの思いが胸に迫ってくる。不思議なことに鉄道の復旧工事は何も始まっていない。架線は垂れ下がったままで、捻じ曲がった鉄柱が夏草に埋まっていた。JRは廃線は考えていないと言っているが、復旧はいつになるのだろうか。

  海岸線に沿って大高森まで5Kmほど歩いた。新しい電柱が立てられている最中だった。傷つきながらも残った松並木の道路を ダンプカーが土煙を上げ ひっきりなしに瓦礫を集積場に運んでいた。海岸に出ると2、3mに積んだ土盛を砕石で覆った(仮?)防潮堤の工事が進んでいた。1時間半で大高森に着いた。西側の海に点在する松島は昔と変わらないように見えたが、北にはいまだに冠水している土地と廃墟になった町が広がっていた。〔スケッチは大高森から北(野蒜方向)を見る〕
 

2011-09-14

薄暮月

  諏訪に足をのばした帰り、電車が茅野を過ぎた辺りだったか、右の車窓から月が見えるのに気がついた。12日の満月まで間があるので、左が少し欠けた月だった。列車がカーブするたびに前に出たり後ろに引っ込んだりした。近くの丘に隠れたり遠くの山の上に登ったりもして、退屈な車中の時間を紛らわせてくれた。17時半を過ぎていたが空は明るさを残していた。薄っすらと白っぽい月だったが、澄んで乾いた空気のせいかよく見えた。南アルプスの山稜は赤紫に沈みはじめ、覆い被さってくるような威圧感を持ちながらゆっくりと後ろに動いていく。しばらくすると、前方にほんのり夕焼け色に染まった富士山が登場して雰囲気を盛り上げてくれた。ドラマでいうと、そろそろクライマックスといった感じだ。小淵沢で列車は止まった。さっきの光景をスチル写真で見れるかと期待したが、残念ながら車窓からは近くの建物ばかりが見え、さっきまでの車窓ドラマは小休止といったところだった。(スケッチは時間を少し進めて満月にしました)



 

高島城


  車から諏訪湖と街を眺めながら通り過ぎたことはあったが、街に降り立ったのは初めてだ。上諏訪駅から湖のある南西に向かって歩きだした。城が近くにあると聞いていたがどこにもそれらしい高い建物は見えない。きちんと調べてくるべきだったかなと思いながらケヤキ並木の落ち着いた商店街を歩いた。平日のせいか人影はまばらだった。やっとすれ違った地元の人らしい女性に訊ねてみた。「この道に沿ってすぐですよ」。少し安心したせいかお腹が空いてきた。途中、小さな橋を渡ったところに丸高味噌・醤油と書いた看板を出した店があったので中に入ると、「味噌の食事」ができるようになっていた。といっても味噌はタレや味噌汁で味わうだけで、ちゃんとメインは別にある。注文したのはヒレカツ定食、タレはもちろん丸高味噌だ。

  食事の後、さらに先に歩くと、突然といった感じで、右手にお城が現れた。三層の天守閣ということもあって威圧感は少しもなく、親しみのある感じがする城だ。今のは41年前に再建されたものだそうだが、これが徳川270年を通しこの地を治めた諏訪氏の雰囲気なのかもしれないと思った。冠木橋(かぶきばし)を渡って本丸内に入ると山水の庭園があり、木々が涼しそうな日陰を落としていた。今日はちょっと楽をして木陰のスケッチをしてみよう。
 

2011-08-29

夏の休養


3周期目の猛暑が過ぎて、暑さも少し衰えかけた感じがする今年の夏だが、去年のことがあるのでまだ安心は出来ない。庭のバラは頑張って暑さを乗り越えたが、ここにきて付ける花は小ぶりになっている。少し遅くれたかもしれないが、夏剪定で蕾や枝をバッサリと切ってみた。これから1ヶ月は夏バテ休養期間だ。10月にはまた見事な花と香りを楽しませてくれるだろう。

心配されていた電力需要は家庭や企業の対応があって、このままだとなんとかなりそうだ。東電は火力発電で需要を賄っているが、コスト上昇分を電気料金の10%アップでカバーしたいといいだした。原発再開へのプレッシャーのように聞こえるが、この段になって値上げも原発再開も急ぐ必要はあるのだろうか。福島第一原発が撒き散らした放射性物質が、検査を必要とするだけでも16都県に及んでいる。東電と国は加害者としての重大性をこれら住民に真摯に詫び、これからの安全について十分説明をしたのだろうか。
 

2011-07-20

放射能汚染


5月の終わりに数日滞在した喜多方でも、放射性セシウムに汚染された肉牛が出荷されていたそうだ。野外に置かれていた稲わらを原発事故後に餌として与えていたためという。福島第1原発の水素爆発で放射性物質が大飛散したときから分かっていたことだし、打つ手もあったのに徹底されてこなかったのにはがっかりする。農水大臣が厳しい表情で謝っただけで済むんだろうか。

3月下旬、東京近辺の浄水場で基準を超える放射性物質が検出され大騒ぎになったし、5月には群馬県の牧草から、その後も神奈川県の足柄茶からも見つかり出荷できなくなった。そして今回の汚染肉牛だ。確実に日本に住むわれわれの中に入り込んでいるような気がしてならない。

それにしても対応がいつも後手後手で、もぐら叩きをしてるようだ。それほどわれわれは原発(放射性物質)を楽観的に考えていたのか、それとも本当に打つ手がないような際どい技術を目をつむったまま使っていたのだろうか。今日何事もなければ明日もまた何事もないだろうという気持ちでいたのは確かだが、それを助長させていたのは半世紀にわたる国の政策であったのも確かだと思う。

  

2011-07-16

夏に思うこと

朝食が終わるとテラスの椅子に座って新聞を読むのが最近の日課になっている。日除けの陰にいるのだが、青空や、陽が当たる植栽や家の壁から熱線が体の一方にじわっと伝わってくる。が、風も時折ながれてきて絶妙の心地をくれる。7月9日の梅雨明け以降、抜けるような青空が続く。陽が高くなってくると決まって南西の風が吹き出し自然の扇風機になる。

こういう季節に父の田舎に連れて行ってもらったことを思い出す。ずいぶん昔のことだ。駅から一面の水田を貫いて流れる疎水に沿って歩いた。藻をくねらせて流れる澄んだ水が暗くて冷たく見えた。稲田を海の波のように流れてきたヒンヤリした風が、稲の香を残して吹きすぎていった。家に着くと決まって井戸で冷やしてあったスイカがでた。従弟同士が縁側に並んでスイカにかぶりつき、種を庭めがけて吹きだしあった。いつの間にか飛ばしっこの競争になった。。。

いま住んでいる辺りは南北に襞状の丘が幾筋かあって、降った雨がその間に染み出してきて川筋を作っている。一時は酷く汚れたことがあったが今は澄んだ流れにもどっている。その川が大雨で溢れた話は一度も聞いていないが、護岸はコンクリートに変わってきていて、土のまま残っているのは毎年狭まってきてる。それが、カワセミの撮影スポットが移動するのでよくわかる。来年は残っているのだろうか。

 

2011-06-14

碁石海岸

いつの頃のだったかな。1965年4月とあるからずいぶん前のだ。。。 友人と三陸海岸伝いにスケッチ旅行をしたときのものだった。碁石海岸は、陸前高田と大船渡の間にある小さな半島の先端にある岩畳の海岸であることが、地図で確かめやっと分かった。そこの海岸のどこかで描いたのだろう。

前の晩は気仙沼に泊まった。古い旅館の、二階の大広間のようなところで寝させてもらった記憶がある。突然現れた貧乏学生に同情してくれたのかもしれないが、気さくな女将との宿賃交渉がまとまって、駅のベンチで寝るのを免れたような気がする、が実のところはっきりしない。

ほとんどぼやけてしまった記憶だったが、この時の絵を見ていると、今度の大津波の直撃を被ったこの辺りのことが気になる。やはりこの時期に行って一度目にしておきたい。



2011-05-31

久しぶりの会津

鹿沼の市街で小休止したあと喜多方に向かった。白河に近づくと所々で道路補修をやっていた。3月以降の地震で路面が波打ったようになってしまったためのようだ。とくに橋梁部と土盛り部分との境目に段差ができしまい、前輪が通過するとガクンと衝撃が伝わってくる。震源に近い浜通りや仙台の方ではもっとひどいのだろうか。僅かだが今度の地震の傷跡を実際に目にすることになった。郡山から一般道に下りて喜多方に向かったが、幸いにも道路には目に見えた痕跡はなかった。

サイクリングロードとして整備されている押切川の土手を散歩するのは気持ちが良い。川原の茂みから吹き上がってくる風には新緑の匂いが含まれていた。自然に根付いたのだろうか、ニセアカシアが白い花をつけていて、甘い香りを放っていた。お目当ての飯豊(いいで)のたおやかな峰は、雲の向こうに隠れ見えなかった。反対側の雄国(おぐに)の峰は、頂上付近が少し雲に覆われていたものの、緩やかな山裾が終わった辺りには、田植えが済んだ水田が雲の隙間から落ちるわずかな陽光を受けて広がっていた。2年間も来ていなかった気がしない。



2011-05-18

観光地、マーガレットリバー

イースターの5連休にパースから3時間ほど南にあるリゾート、町の名前でもあり地域の名前にもなっているマーガレット・リバーに出かけた。観光地といっても日本のそれとは全く違っていた。対面通行のハイウェーから一般道に出ると、人どころか車ともすれ違わない。道路の両側に見えるのは赤っぽい大地に広がるユーカリの林とブッシュ、それにかろうじて人の営みを感じさせる牧場や農場。どことなく西部劇の雰囲気に近い。ランチを予定していたレストランに向かうのだが、こういうワイルドな景色の中を走っていると期待はだんだんと萎んでしまう。どんな店なのだろうか。

広告板も案内標識もないので入り口に近づくまで気づかない。実に幸運に目に入った門を通り抜けて少し走ると木立に囲まれた駐車場があった。間違いなさそうだ。少し色づいたブドウ畑がなだらかな斜面に続いている。途中で見た乾いた赤い土地とは対照的だ。テイスティングしたワインの味は私には少し強かったが、ランチの、煮込んだラムのスネ肉はクセがなく美味しかった。こちらの名物料理だと後になって教えてもらった。帰り際、レストラン脇からの眺めが公園のようで、これがこの辺りの観光地なんだろうと分かったようなつもりになった。



2011-05-03

動体視力

大地震のあといつまでも続く余震に腹立たしい気持ちになるのだが、こればっかりは耐えるしかない。こんなストレスも作用したと思うのだが、休みが取れるという娘を訪ねパース(オーストラリア西海岸)へ行くことにした。時差1時間といえども季節は秋になっているはずだ。

街路樹のプラタナスは少し色づいて来たそうだが、30℃を超える日中の気温からは秋は微塵も感じられない。街のスカイラインの手前にはスワン川が澄んだ青空を映している。涼しくなった夕方、部屋から見えるゴルフ場に練習をしに出かけてみた。数人がゴルフクラブを振っていて、伸びてきたユーカリの影が落ちる芝生に向かって白いボールを飛ばしていた。右側の池から黒ずんだ色のアヒルの群れが一列になって出てきたかと思うと、7、80メートル先で、夕飯なのだろうか、しきりに何かを啄ばみ始めた。飛んでくるボールには一向に目もくれない。殆どのボールは彼らの上を飛び越えていくのだが、たまに際どい球もある。それでもマイペースで餌を取り続けている姿は、ゴルファーを馬鹿にしているようにも見えるのだが、彼らにそんな暇はないはずだ。。 たぶん、彼らの視力では、飛んでくるボールがしっかりと見えるのだろう。当たりそうになればサッと身体をかわす反射神経を持っているのだろう、と考えることにして、休めていたボール打ちをまた始めることにした。


 

2011-01-26

菜の花遠足

しばらく休んでいた「つれづれスケッチ」を再開します。

満開になった菜の花を見ようと吾妻山(136m)へ遠足に出かけた。山というか丘の上にある公園広場だ。東海道線二ノ宮駅で北口に降りるとすぐ左前方に見える。石段を上り切ると、正月の間の運動不足がたたったようで、やはり息が荒くなった。丘の上はなだらかでスイセンが所々にかたまって咲いている。お目当ての菜の花畑はもう少し先にあった。広場に出ると視界が開け、丹沢から富士山、箱根の山々、そして小田原、伊豆半島、相模湾、江ノ島辺りまで見えた。それと同時に菜の花の柔らかい香りに包まれた。わたしと同じように菜の花見物にやって来た人たちで、広場の西側はいっぱいだ。どこかの絵画クラブの催しなのか、スケッチをしている年配の女性が際立って多い。失礼と思いながら覘いてみた。面白いことに半分ほどの人たちは、ズームアップした富士山を真ん中にドーンと入れた構図だった。気持ちがストレートに絵になっているような気がして微笑ましい。それに比べると私のは皮肉れているのかもしれない。