プロフィール

自分の写真
名古屋生まれの名古屋育ち。絵との付き合いは、油絵を始めた高校時代。仙台にいた頃は友人と木版画に熱中。社会人になって遠ざかったものの、退職を期に再スタート。水彩、油絵と、もと来た道を楽しみながら続けています。

2024-01-01

思い出すこと

< 「帰り道」 水彩 はがき 1967.07.02 >
  
新年おめでとうございます。みなさんにとって良き一年でありますように。

暮れは アイデアがまとまらず 昔描いたスケッチを載せました。絵葉書にしたのに出さずじまいになっていたものです。何か思い出があって捨てずにいたのでしょう。 友人を訪ねた帰り道、仙石線・福田町駅で電車を待つ間に見た光景のはずで、寮に戻ってから描いたのだと思います。何かに感じスケッチする、多感で活動的だった昔を懐かしく思い出しました。

そのころの週刊新潮の表紙を飾っていた谷内六郎の絵を思い出します。東京五輪、新幹線、東名高速道路。華やかな時代の幕開けと対照的に、心の故郷を描く彼の絵が蘇ります。さて今の時代は50年後にどう見えるのでしょうか。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

絵は時としてその表題や添え書きから観る人の心をかき立てる。「仙石線」の一言が、60年近く前、仙台での東北大学ラグビー部との対抗戦の後、高校時代の同級生ラガーの住む明善寮で世話になった光景を思い出させた。夜寒の中、北仙台駅あたりの小さな居酒屋の店先から匂う七輪で焼いたホルモン焼の匂い、家々の暖房で使う亜炭のけむる匂い。寮は隣室への近道としてあけた大きな穴から吹き抜ける寒い風。きっとこの絵にも亜炭の匂いが漂っていただろう。//東北の旅から思い出したのは松尾芭蕉。句集の「句」は絵に相当し、句の間の「紀行文」が絵の添え書きに相当している。芭蕉の「おくのほそ道」の句は、その紀行文が句の趣を一層深くしている。しかしなぜか宮城野から松島・塩竈・石巻・松島まで、目に浮かぶような紀行文は残されているが句は一つも句集の中に残していない。あたかも風物詩を残し、あえて句は読者にまかせたのだろうか。あるいは「その時、声無きは、声あるに勝る(琵琶行)」の白居易の心境だっただろうか。//この絵は添え書きが列車であれば「銀河鉄道の夜」に誘ったかもしれない。あるいは星であれば「ローヌ川の星月夜」に思いが飛んだのかもしれない。//今までの人生を反芻しながら絵を楽しむのはやはり「お正月」だからだろう。今年の年明けは地震や飛行機事故で騒がしい幕開けとなったが、今日からは落ち着いた日々を取り戻す初日と心して日々新しい気持ちで暮らしたい。(M)

okazu さんのコメント...

 星空の下のヘッドライト一つの電車と木製の駅名表示板とが当時の仙石線の雰囲気をとてもうまく描かれていると思います。まさしく週刊新潮の谷内六郎さんの世界ですね。
 仙石線は仙台と石巻を結ぶ私鉄として大正14年に部分開業し、4年後の昭和3年に全通しました。
開業当初から全線電化されていて、独自の電車が走っていました。昭和19年に国に戦時買収され国鉄となりました。東北本線が上野から仙台まで電化されたのが昭和36年、常磐線電化も昭和42年の事で仙石線に電車が走っていたのは、それよりはるか以前の事でした。